2006.7.10

 

ハタと気づくと、随分長い間ビエンチャンレポートを更新していませんでした。現地に居さえすれば良いのだろうと思って引き受けた面もある(JICAの人は読みませんように・・・)約半年間の駐在ですが、意外に忙しい日々が続いています。平日は仕事に追われ、金曜と土曜の夜は飲んだくれてバッタンキューというパターンが出来てしまいました。尤も、週末飲んだくれるのは、ビエンチャンに限らずどこに居てもそうでしたが・・・。

一番時間を取るのは、FEBM (Faulty of Economics and Business Management) の先生方の研究のお手伝いです。先生方が書かれた教科書の英語要約をチェックしたり、FEBMで発行しているジャーナルに載せる英語論文の審査をしたりしています。FEBMはまだ若い学部ですから、先生方といっても学部卒直ぐの方や、タイや日本の大学で修士をとり終えたばかりの方が殆どです。シニア教員でも、英語で論文を書くのは初めてという方が多く、最初に提出されたものは、読んでいると悶絶しそうになるようなものもあります。これに細かく赤を入れていると、結構な時間が過ぎていきます。

次に時間がかかるのは、JICAへの様々な要請書作成のお手伝いです。現在のプロジェクトは8月末で終了します。9月以降のフォローアップ期間(プロジェクト中に積み残した事項、さらには期間中に新たに生じた内容を完了するための補完援助)の実施計画案の作成と、大学院新設のための新規プロジェクトの要請案作成の作業が、5月以降延々と続いています。こうした書類を作成するのは、当然プロジェクトの推進母体であるFEBMですが、JICAの意向・質問をFEBMに伝えたり、JICA向けの説明を補足したりというお手伝い作業が、現地駐在の日本人専門家には期待されています。あまりお手伝いしすぎると誰がプロジェクトの主体なのかが曖昧になってしまうし、さりとてお手伝いしないと仕事をサボっていることになりかねません。技術協力の難しさに直面してバランスを取ろうともがいている間に、この一ヶ月ほどはアッという間に過ぎていきました。

さて、こうした要請作業の本格的な始まりは、5月末に日本大使館が開催したODAセミナーでした。毎年のこのセミナーで、日本の次年度のラオス向け援助の方針説明や、それに対する質疑応答が行われます。対ラオスでは日本が最大のドナーということもあり、Vientiane郊外の国際会議場を借り切っての大がかりな説明会でした。私もFEBMの学部長のお供をして、慣れないネクタイを締めて参加しました。ある若い大使館員の方が説明を始めたとき、さっぱり分からず、下手な英語だなーと思って聞いていました。しばらくしてから気づき、大変驚いたのですが、なんと彼はラオス語でベラベラ説明していたのです。ほとんど草稿を見ている素振りもなく、まさにベラベラでした。質疑応答でも、ラオス側の質問者と丁々発止のやり取りを続けていました(私には分からないので、見た感じの判断ですが・・・)。落ち着いて考えれば、大使館に現地の言葉を話せる人がいるのは当然のことです。私が驚いたのは、その方のベラベラぶりに加えて、ラオス語は日本人にとってとてつもなく難しい言葉だ、という思い込みがあったからです。ということで異常に長い前置きが終わり、私のラオス語学習記です。

 ラオスに来るまでは、お隣のベトナムの言葉が日本人にとって一番難しいと思っていました。なにしろ、ベトナム語の声調は6つあります。同じマーでも、調子を上げて読むか下げて読むかなどで6通りの意味があるわけです。私が30歳にして得た定職の初仕事は、ハノイ出張でした。多少なりとも言葉を学んでからと思っていた私は、ベトナム語が6声と聞いて絶望的な気分となり、さらにその特異な(私の目から見てです)アルファベットを見て、最初からギブアップしてしまいました。なにせ、私は北京語の4声にすらついていけませんでしたから。1996年当時のハノイでは、街中で英語がほとんど通じない状態でした。英語の看板など、見かけませんでした。道に迷ったら終わりと、できる限り直線に歩いていたことが記憶に残っています。

 今回はほぼ半年間の滞在ということでもあり、最初からいくらかのラオス語を学ぶつもりで、日本で手に入る限りの教科書を購入して来ました。出発前は殆ど目を通す暇がありませんでしたが、開けてビックリ、なんとラオス語も6声です。さらにはそのアルファベットは、私から見るとヒンディー語かなにかですか、というような意味不明の形状です。ベトナム語のアルファベットの場合は、フランス人牧師が作ったというだけあって、なんとなく慣れている英語に似ていました(やたらXが多いですが・・・)。ラオス語のアルファベットは、例えばこんな感じです。

 

 

これが、私がジムで通っているLao Plaza Hotel の表記です。この場合、横に英文表記が付いていますから良いですが、街中のほとんどではこのアルファベットだけの表示です。このアルファベット+6 = 「ベトナム語を押しのけて日本人にとって一番難しい言葉」、というのが私のラオス語に対する最初の印象でした。

 とはいえ、先述したように半年間の滞在です。仕事だけでなく、生活しなくてはなりません。ラオスで英語が通じる場所は限られています。先任の日本人専門家の勧めもあり、4月中旬から週12回、ラオス語の個人レッスンを受けています。先生は、なんとラオス国立大学文学部の講師の方です。ちなみに、受講料は一回1時間5ドルです。こうした方から個人レッスンを受けられるということは、日本ではあまり考えられませんが、ラオスでは普通のことです。大学教員(というより公務員全体)の給与が低く抑えられているため、ラオス国立大学の先生方は、たいてい副業をしています。FEBMの先生方にしても、生活のため、私立のカレッジや夜間コースで経済学や経営学を教えています。こうした副業が忙しくて、研究にあまり時間を割いていただけないのが、FEBMプロジェクトの問題点の一つです。オッと話がそれました。

 レッスンは、先生ご自身が作成された教科書に基づいて進みます。まずは、Basic Spoken Lao for Foreignersという会話編の教科書で、ひたすら言い回しを学びました(ここで、「覚えました」と書けないのが辛いところです。あまり覚えていないので・・・)。例えば、How old are you? をラオス語で言うと、チャオ アニュ チャック になるというような感じです。教科書にはラオス語表記も出ていますが、この段階ではラオス語のアルファベットは学びませんでした。先生は教え方が大変うまく、既に学習した言い回しを取り混ぜて、毎回いろいろな話題で話しかけてくださいます。こちらの覚えが悪く、なかなか会話にならないのが申し訳ないところです。6月末に、全部で15課のこの会話編教科書が一通り終わりました。次の2回のレッスンで文字の書き方を学び、今は3冊目の教科書で、読み方と文法を習っています。

 仕事の忙しさで復習が不足していることに加え、40才にもなると頭が硬くなっており、曜日の言い方、一冊・一個・一本といった数詞などは、何回やってもなかなか頭に入りません。曜日の言い回しに関しては、なぜか土曜・日曜・月曜だけは確実に覚えています。月曜日は曜日の最初、週末に関しては、先生やラオス人スタッフとの会話で話題に上ることが多いためだと思います。この程度の学習状況ですから、全く復習が出来ていない日などは、先生の都合で休講にならないかな、と思うこともしばしばありました。これは、私の講義に出ている学生の方々と同じ気持ちでしょうか。

 ところが、文字を学び、少しずつ文法を学び始めると、俄然ラオス語学習が面白くなってきました。今も、正直いうとこの文章を早めに書き終えて、ラオス語の教科書を開きたいくらいです。言葉を学ぶ喜びには、2つの要素があると思います。まず一つは、現地の人と話せることです。屋台のおばさんと注文・支払いのやり取りが自然に出来たときは、とても嬉しくなります。時々行く食堂で、初めてラオス語で注文をはじめると、ウェイトレスのお姉さんが、微笑みながら注文を繰り返してくれます。そうした微笑みは、もう少し頑張ってラオス語勉強してきます、という気に十分させてくれます。

もう一つは、言葉の構造が分かる喜び、もう少し大袈裟にいうと、人々の考え方にふれられる喜びです。英語の例で言えば、I do not think I can go with you. という言い方から、Yes, No をまずはっきりさせるアングロサクソン文化を類推できる、というようなことです (この内容では、I am afraid I cannot go with you の方が自然な言い回しかもしれませんが・・・)。最初に書いたように、現地専門家の仕事のなかで最も時間を取るのは、FEBMの先生方の英語論文・英文書類のチェックです。赴任当初驚いたのは、先生方が書く英語にbe動詞が無いものが多かったことです。かと思うと逆に、一つの文のなかに平然と動詞が二つ並んで入っていることがあります。ラオス語の文法を学んで分かったことは、こうした文章は、先生方がラオス語の構造をそのまま英語に適用したことから生じているということです。ラオス語では、名詞を並べるだけで文を構成することができます。また動作の前後に従って、一つの文に複数の動詞を入れることが出来ます。この部分を学んだときは、FEBMの先生方の英語の謎が解けたような気になり、思わずアーアーアーと声を上げてしまいました。先生はビックリされたことと思います。最近、ラオス人の先生方の書く英語で気になるのは、従属節だけで主節(正式な文法用語は分かりません)が無い文が散見されることです。たとえば、Since I visited there before, I know という文で、I know 以下のメインの文章が無いようなケースです。これもラオス語の構造に因っているのではないかと思って、これからの文法の学習を楽しみにしています。

こうした経験から、文法中心の学習もあまり捨てたものではないと思うようになりました。会話重視の学習では、言葉を学ぶ喜びのうちの最初の一つ、現地の人と話せる喜びしか享受できません。文法の学習から始めれば、言葉を学ぶ喜びの2つの要素をどちらも楽しむことができます。ただしその代償として、会話ができるようになるスピードはかなり落ちてしまいますが・・・。新聞報道などで判断する限り、最近の日本の語学教育では会話に重点が置かれ、文法の学習が脇に追いやられているようです。海外でいろいろな経験をした後で振り返ると、私が中学生の頃に受けた文法重視の英語教育もまんざら悪くなかったのだな、と思えるのですが・・・。

では滞在4ヶ月を経て、ラオス語に対する私の印象、日本人にとって一番難しい言語であるという印象は変わったでしょうか?その複雑怪奇なアルファベットの形状のため、今でも難しい言葉だと思っています(もっとも日本語を学んでいるラオス人に言わせると、ラオス語のアルファベットなど、ひらがなの形の複雑さ、数の多さに比べればなにほどでもない、ということになります)。ただ、その単語の「でき方」が類推できるようになるにつれ、ラオス語と他のアジア言語(例えば、もっとも簡単といわれているインドネシア語)の近似性が感じられるようになり、ラオス語に対する親しみは増しました。部屋(ホーン)という単語と水(ナム)という言葉を組み合わせると、トイレ(ホーンナム)になります。これは、便所という単語の作り方と同じ発想です(汚い例で失礼)。

 

ついでにその他の近況報告をしておくと、雨季なのにあまり雨が降りません。昨日までの4日間、カンカン照りが続いていました。まさにギラギラとした陽射しの日々でした。昨日土曜日は夕刻1時間ほど大雨が降りましたが、本日もまたカンカン照りです。座って上記の文章を書いているだけでも、汗がダラダラ出てきます。こうした日は美味しいビアラオ(Beer Lao)でも飲んで、と思いますが、オッと、その前にラオス語の復習でした。最後に、私の下宿先の前のHengboun 通りの日暮れをお届けします。