2005.4.18
橘 永久
3月26日から4月5日にかけて、北部山岳丘陵地帯の焼畑農村を訪れました。今回の業務は、国際協力機構 (JICA) の短期専門家として、ラオス国立大学経済経営学部の若手スタッフに農村調査法のトレーニングを行うことです。背景・トレーニング内容については、神戸大学のホームページに掲載した文章 (← Click here) を参照してください。また農村調査法そのものについては、改定中のものですが、この文章 (← Click here) を御参照ください。関連する写真のいくつかは、ホームページのPhoto Section にもあります。
以下は、初めてラオスの北部農村を見た感想です。調査村の名前は伏せてあります。
Luang Phabang(ルアンパバン)市内から車で川沿いに国道13号を30分ほど北上した後、Pak Suang(Geographic Department発行の1985年版の地図ではPak Xuangという表記。以下同様)村の近辺で右折して、Seung (Xuang) 川沿いの山道に入ります。この山道は、EUの協力で建設され2002年に完成したそうです。舗装はされていませんが、さらに一時間半ほどかかる目的地まで、車がすれ違えるほどの幅はあります。ただ、ところどころ脇の斜面から崩れ落ちた岩が転がっており、雨季の通過は困難になると思われました。後に調査村で聞いたところ、村人の足であるトラックバスで、Luang Phabangまで乾季は2時間、雨季は3時間半かかるとのことでした。
しばらく進んだだけで、両脇の斜面いたるところに焼畑の跡が見られます。異なる植生がパッチワークのように続きます。草地のようになっているのは、昨年の焼畑の跡、切り倒された木や竹が転がっているのは、今年、焼く準備をしている土地です。少し大きめの木が生えているのは、3、4年前の焼畑地と思われます。かなりの急斜面以外は、大きな木はあまり残っていないように見えました。1996~7年頃に調査したベトナム北部の状態に似ていますが、まだそこまでひどくはないというのが見ての感想です。当時のベトナム北部の調査地は、草の丘が延々と続いている感じでした。こちらは、まだ一応木があります。参考として、Vientiane (ビエンチャン)からLuang Phabangに向かう機中から撮影した写真を掲載します。
ラオスでは焼畑による森林消失が大きな問題となっており、政府は森林保全のため、2020年までに焼畑をなくすことを目標にしています(この年次は不確か。2015年までかも。ただし現行の経済社会開発5ヵ年計画では、2005年までに焼畑を基本的に解消するとしていた)。たしかに調査地までの道路沿いの眺めは、森林に対する焼畑の影響の大きさを示しています。とはいえ私は、焼畑がラオスにおける森林破壊の最大の要因だろうか、という疑念も持っています。
(機内から見た、Luang Phabang近郊の山並み。モザイク状が焼畑の跡)
ベトナム北部の禿山化は、急速な社会主義化政策における農業集団化の失敗が大きな要因でした。集団化により川沿いの低地で食えなくなった農民が、集団化の規制のかからなかったupland (斜面)に殺到して慣れない焼畑をやったことが、急速な森林消失を招きました。ラオスでは、そのような急速かつ強力な集団化が実施されたでしょうか。現在は人口圧が焼畑の増大を招いているとされているようですが、ラオスの約550万人の人口は、周辺諸国に比べると圧倒的に少なく、人口密度も高くありません。また今回の1か村だけの調査から受けた印象ですが、低所得のため、農村で晩婚化が進んでいるように思われました。
では、なにが焼畑と森林破壊を結び付けているのでしょうか。私には、政府の貧困削減 (Poverty Reduction) 政策から生じる人工的な人口圧が、一部地域の急速な森林消失を招いているように思われました。貧困削減のためには、道路・学校・電気といったインフラが必要になります。人口が集中しているほうが、こうしたインフラの供給は少なくて済み、効率性は高まります。そのため、調査させていただいた村が所属する郡では、森の中に分散して住んでいた人々に、川沿いのこの村に移住するよう奨める政策を取っています。郡庁でのインタビューにおいても、郡の最優先政策は貧困削減、そしてその実現の手段は人口集中政策、との回答をいただきました。
こうした人口集中政策による人口圧が、大きな村・道路周辺の土地の過剰利用を招き、近隣の森林破壊と焼畑の生産性低下という二重苦を招いているように思われてなりませんでした。ただ、これは1か村をみただけの感想です。詳しいことは、周辺の村まで含めて調査しなくては分かりません。残念ながら、今回はその余裕はありませんでした。
その他聞き取り調査で印象に残った点として、以下の2点があります。まず、調査村の経済が、完全な貨幣経済となっていたことです。ラオス農村部に関する一般的な文献、さらには調査村における数年前の別の調査報告でも、村落経済は依然として物々交換経済の段階にとどまっている、とされていました。調査村では、10年前に仲買業者が現れたころから貨幣化が始まり、2,3年前にはバーター取引はほとんど姿を消したとのことでした。インタビューしたおばさんに、これはなんとでも交換できるから便利だよと1000 Kip札を見せながら言われた際は、私は経済学の教員ですと答えたくなりました。この貨幣経済化が、郡庁所在地である調査村のみの現象か否か、興味があるところです。
次に印象に残った点としては、体に障害をもつ人が多かったことです。家族構成の聞き取りの際、耳が聞こえない・口がきけない・精神面で障害があり働けない・昨年入院した、との回答がかなりの頻度で聞かれました。主な支出項目に関する聞き取りでも、薬への支出が米の購入費と1,2位を競っている状況です。雨季に大流行するというマラリアの影響か、戦争の後遺症か、いささか気になりました。
(調査村内)
以下、その他の主要結果の要約です。
1) 調査対象村にはuplandしかない。もち米、ゴマ、Posaといわれる紙の原料の木が中心作物。もち米は主食、ゴマ、Posaが換金作物という認識。
2) 焼畑の解消といっても、政府が目指しているのは、年毎に耕作地を自由に変える移動型の焼畑の解消である。現行は、3 plot の土地を配分し、そのなかで年毎に耕作地をrotation する固定型の焼畑への移行が政策の主題。
3) 固定型への移行政策は、1994年に3 plot 配分という形で始まったという回答と、1990年に 4 plotsという形で始まり、1994年に1 plot 返上させられて3 plots 配分となったという二種の回答あり。
4) 3 plot に限定された固定型焼畑に転換してから、もち米の生産性は落ちている。大体、家内消費6ヶ月分の生産しか出来なくなっている。現在のもち米(籾)の平均的な生産高は、1ヘクタールから大体1トン。1980年代初頭の移動型焼畑では、1 ヘクタールから4〜5トンの籾米が収穫できた模様。
5) 1996年に始まった土地所有権配分事業は、予算制約のため、遅々として進んでいない。2005年3月段階で、郡内60数か村中、7カ村で終了しているのみである。
6) 農林作物流通への規制はかなりきつい。家畜、ゴマ、Posa、ほうき用の草・嗜好品用の木の皮といったNTFPに
7) 土地の売買は、土地分配政策実施の有無に関わらず、1990年代初頭から行われていた。特にTeak の木を植えるための川沿いの土地が売買の対象となっている模様。
8) 新品種のゴマが急速に普及している。
9) 村内に、麻薬中毒患者のための施設あり。大麻の栽培は、山中のいずれかで行われていると思われる。
(Posa の木。皮から、紙を作ります)